歴史 2018/02/24

昭和天皇独白録


From:岡崎 匡史
研究室より

『昭和天皇独白録』の原本がニューヨークの競売で落札された。
購入額は22万ドル(約2500万円)。落札者は、高須クリニックの高須克弥院長。

2月19日、高須院長は宮内庁に『昭和天皇独白録』を寄贈するため、宮内庁書陵部へと届け出た。

宮内庁御用係・寺崎英成

さて、競売にかけられた原本は、昭和天皇が執筆したものではない。
昭和天皇が語った言葉を、側近のひとりが手書きで作成したものだ。

その人物は、元外交官の寺崎英成(てらさきひでなり・1900〜1951)。

1946(昭和21) 1月24日、寺崎英成は吉田茂外相からの命令で、「陛下の『スポークスマン』となり 天皇制擁護に全力を尽してくれ玉へ」と言い渡された。

吉田茂は、GHQ幹部から、皇室・日本政府・GHQとの連絡を密にする必要があると説かれており、「宮中のGHQとの連絡係」として寺崎に白羽の矢をたてたのだ。

秘密工作

寺崎英成は東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、外交官として日米開戦前には、アメリカで情報収集、戦争回避のための和平工作を行なっていた人物である。寺崎はブラウン大学で研修留学した後に、1931(昭和6)年、ワシントンの日本大使館在勤中にテネシー出身のアメリカ人女性グエン・ハロルドと知り合い結婚した。

寺崎の隠されたもう一つの側面は、米国で秘密情報工作に従事して連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation, FBI)の監視下にあったことである。

FBIの報告によると、寺崎は「米国内における日本の諜報作戦に関する調整、指導に責任」を負っており、「アメリカにおける日本のスパイの責任者の地位にある」とされていた。

寺崎は自分の娘の名前「マリコ」を日本政府との暗号として用いた。

「マリコ」は「米国の態度」を意味した。たとえば、「マリコ、お宅に遊びに行く」は、「米国の態度は妥当」を意味した。一方、「マリコ、遊びに来ぬ」は「米国の態度は不当」というように使用していた。しかし、この暗号はアメリカ軍によってすぐに解読されて、日本の情報はアメリカに筒抜けであった。

独白録の行方

寺崎は米国から帰国後の1945(昭和20)年11月、外務省に復職。1946(昭和21)年1月に吉田茂外相から「宮内省御用掛」を命ぜられた。日本政府とGHQの連絡官となり、昭和天皇とマッカーサーの通訳も担当。日本政治の裏面史に深く関与した。

東京裁判を見込んで作成されたとされる『独白録』の英語版「How the Emperor Felt the War」という文書も別に存在している。コピーしたものを手元に持っているが、この文書はヴァージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念図書館の「ボナー・フェラーズ文書」(Box 8)に保存されている。

その一方で、寺崎が書き残していた昭和天皇の記録は、遺族のもとに長らく保管されていたが、ニューヨークで競売にかけられ、高須院長が落札し、宮内庁へ70年以上の歳月を経て戻ってきた、、、

お金をたくさん稼いだこともない私が言うのもなんですが、「生き金」となる品位あるお金の使い方だと思います。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・ 浅井信雄「日米開戦前夜における寺崎英夫の役割―平和主義者か諜報主義者かをめぐる一試論」『神戸外大論叢』第39巻、第7号、1988年
・寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』(文藝春秋、1991年)
・グエン・テラサキ『太陽にかける橋』(中公文庫、1991年)
・春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』(共同通信社、2000年)

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