メソポタミア文明と水
From:岡崎 匡史
研究室より
メソポタミア文明は、ティグリス河とユーフラテス河の間の「肥沃な三日月地帯」で勃興した。「メソポタミア」とはギリシア語で、「複数の河の間」という意味だ。
世界最古の古代都市ミソポタミアでは、シュメール、アッシリア、バビロニア、アッカド、ヒッタイトなどの文明が栄えては消滅していった。
ティグリス河はトルコ南部のハザール湖とワン湖を源流とし、ユーフラテス河もトルコ中央部のエラーズー近郊を水源とし、シリア北部を横切りイラクへと流れる。
ティグリス河とユーフラテス河は、イラク南部のバスラ近郊で合流し、シャッタルアラブ川(Shatt al-Arab River)と名前をかえてペルシア湾に注ぐ。
川と紛争
川(River)の語源は、ラテン語の「ripa」(岸、河岸)に由来する。
英語のライバル「Rival」(競争相手)は、ラテン語の「rivus」(小川、流れ)から派生した「Rivalis」という言葉で、「対岸に住んでいて、同じ川の水を利用する人」という語義がある。川をめぐるライバル関係が、血まなぐさい紛争の歴史を彷彿させる。
メソポタミア文明においても、水が紛争の種だった。古代都市ラガシュとウンマの間で水戦争が起きた。ラガシュはウンマの統治者を殺して勝利した後、両国の境に用水路を掘ってユーフラテス河の水を自国の土地へ引いた。
しかし、ウンマは報復のためラガシュに攻め入り、ラガシュの統治者を殺す。これ以降、ラガシュとウンマが国境線と水をめぐり、生存本能を賭けて争い、その死闘は150年続いた。水戦争を終結させた条約文書は、世界最古のものとされ、パリのルーブル美術館に保管されている。
オスマン帝国
ローマ皇帝コンスタンティヌス一世(Constatinus I・272-337)が330年に建設したコンスタンチィノープルは、東ローマ帝国(ビザンチ帝国)の首都として1100年以上も繁栄した。東ローマ帝国は1453年、イスラム系王朝のオスマン帝国第7代皇帝メフメト2世(Mehmet II・1432-1481)の侵攻よって滅ぼされる。
オスマン帝国下では、コンスタンチィノープルは「イスタンブル」と名前を変えられ、アジアとヨーロッパの中継地点として栄えた。
1301年に誕生したオスマン帝国は、中東全土とギリシアを制覇し、黒海に面した広大な領土、そして北はハンガリーやポーランドまでのヨーロッパを支配し、さらにアラビア半島とエジプトと地中海に面した北アフリカの全領土を統括したイスラム教の大帝国である。
1914年、欧米列強を巻き込んだ第一次世界大戦が起こり、数百万人の戦死者を出した。ドイツ側についたオスマン帝国は、ドイツ惨敗と同時に戦勝国英国とフランスとアメリカに食いちぎられるように引き裂かれ、600年間続いた帝国は小さな国々に分割されていった。それ以来、中東で戦火が絶えたことはなく、今でも世界で最も危険な地域である。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
小島義朗、岸曉、増田秀夫、高野嘉明編『英語語義語源辞典』(三省堂、2004年)
田中秀央編『増訂新版 羅和辞典』(研究社、1966年)
浜田和幸『ウォーター・マネー「水資源大国」日本の逆襲』(光文社、2008年)
ヘザー・L・ビーチほか『国際水紛争事典』(アサヒビール、2003年)
サンドラ・ポステル『水不足が世界を脅かす』(家の光協会、2000年)