歴史 2018/11/02

日本兵の「組織的人肉食」と「大量レイプ殺人」事件?②




一方、ニューギニア本島の状況は違った。
元々、気候風土は極めて厳しく、道路さえほとんど存在しなかった未開の地域である。
そこにオーストラリア軍やアメリカ軍が上陸し、激しい陸上戦闘が各地で発生、日本軍は微弱な装備で抵抗したものの、やがて補給線が途絶え、敵からの物量攻撃が激しさを増した。


徐々に追い詰められた日本軍将兵は、マラリアなどの風土病にも冒され、まともな医療資材も薬もなく、食糧もまったくない状態で、それでも重い銃や砲を担ぎ、あちこち移動しながら戦うしかなかったのである。


すでに昭和17年7月に発動されたポートモレスビー作戦においては、その後半戦となる10月ごろ、撤退する日本軍将兵はオーエンスタンレー山脈の山中で、最初の人肉食を行っている。


7月から8月にかけて上陸した南海支隊は、わずか2週間分の食糧しか持たされておらず、この頃はすでに飢えて久しい状態にあったのだ。
当時、この作戦に参加し、一個中隊を指揮していた高知県出身の歴戦の曹長は、転進の途中、山の中でガリガリにやせ細ったある伍長が、敵兵のものらしい人間の腕をぶら下げているのを目撃した。


「おい、そんな手なんかふてい(捨てろ)」と命じた曹長に対し、すでに絶食状態で生死をさまよっていたその伍長は反抗的な視線を送ると、銃剣を使ってその「手」の部分だけを曹長の目の前で切り取ると、これ見よがしにそれを放り捨て、残りの腕の部分をぶら下げたまま消えてしまったという。


その後、南海支隊はニューギニア北部海岸のブナ、ゴナ(バサブア)、ギルワという陣地に押し込められ、まったく弾薬や食糧、衛生資材の補給がないまま、10倍近い敵と2ヵ月以上、死闘を演じるのであるが、その頃には多くの人肉食が行われた。
しかし、当時の現場は凄まじい「飢餓地獄」であったことを絶対に忘れてはならない。


ある元兵士は、乾パン一袋で20日間食いつなげと言われ、追いかけてくる敵と戦いながら必死の思いで食い延ばしをやったが、結局その後70日間、いっさいの食糧を与えられることはなかったというし、別の兵士(衛生兵)は、タコツボ(一人用の戦闘壕)の目の前に小さな「畑」を作り、それを30に区切って、そこから飛び出すわずかな雑草の芽を摘み、それを1日の食糧にしていたという。


前者は、上陸時70キロ近くあった体重が、1年後にラバウルに戻った時には28キロほどしかなかったというし、後者の衛生兵は、横になると痩せ過ぎのために突き出た腰骨が地面に当たって痛いので、そのための小さな穴を掘ってから寝るようにしたという。


こんな敗残兵らの帰還を見た後方勤務の兵士らは、「骸骨がふんどしだけを着けて歩いているようだ」と思ったという。


彼らのいた陣地は、敵との距離わずか30~100メートルという最前線にあり、周囲は完全に包囲されていて、武器弾薬食糧のいっさいが途絶していた。
そんな中、飢餓による苦しみの極限に達した兵士らが、射殺した敵兵の肉に手を出すという地獄絵図が展開された。


当初は、射殺した敵兵はそのまま放置されたが、あの灼熱の地のことである。死骸は半日も絶たないうちから腐り始め、風向きによっては耐えがたい臭気を陣地に送り続けた。


それを何とかするため、最初は少数の兵士らが陣地を飛び出して敵兵の腐乱遺体に土をかけたりしていたのだが、そのうちに、飢餓状態にあった兵士らが、まだ腐敗していない敵の肝臓を手に取り始めたのだという。
そこからが始まりだった。


人肉に手を出したのは、「もしあと1日生き延びれば、食糧にありつけるかもしれない」という、ほとんど絶望的だが、しかし日本で自分の帰りを待つ愛する人々のもとへ帰るため、その命をつなぐ最後の手段として行われたのだ。
もちろん、その対象となったのは、オーストラリア兵やアメリカ兵だけではない。
戦域によっては、現地人がその対象になったこともある。


問題は、そんな体験をしたことさえない、昼食を一食抜いただけで「ああ、腹減った」とぼやく、飽食した今の我々に、いったい何をもってそれを非難する資格があるのか、ということである。


一方、ニューギニアの一部の部族には「食人」の習慣があったことも事実である。
アメリカの第41代副大統領であるネルソン・ロックフェラーの息子マイケルは、1961年11月にニューギニアで遭難したが、彼は地元の部族によって殺され、食べられたと信じられている(この部族では、酋長ら数名がその数年前にオランダ官憲によって殺害され、白人に対する怨恨感情を有していたとも言われる)。


また何年か前には、パプアニューギニアの地方を旅したイタリア人写真家が『最後のパプア』という本を出版したが、その中には、地方に住む部族のある老人が、「白人の肉は臭くて塩辛いが、一番うまいのは日本人の肉だ。我々の部族の女たちと同じくらい美味い」と話したとする行があり、世界中で大変に話題となった。
つまり、日本の敗残兵も食われていたということだ。


実際、私の手元には、適性現地人がひげ面の日本兵の首を切り落として、誇らしげに持っている凄惨な写真があるが、ここではとても見せられる代物ではない。
要は、それが「ニューギニアの戦場」の現実だった、ということである。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章  ニューギニアの日本兵 pp.153-156


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